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ばく の音楽活動と日常を綴るブログ since August,2003
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小学生の頃のはなし。

同級生のA君は小柄。顔立ちは丸く愛嬌がある。
勉強はそうできるほうではなかったし、
運動だって、動きに全くバネを感じさせない
とっても不器っちょな身のこなし。
そこへきて性格は、いたって生真面目ときているから、
クラスメートは、彼のことを今で言う「ドン臭いヤツ」と
感じていたようだ。もっともそれはそれで、
クラス内での彼のポジションは確立していたし、
決して浮いた存在ではなかった。
さしずめ現代ならイジメの対象にもなり兼ねないような
キャラクターだったかも知れない。
そんな彼と僕は何故か親しかった。

「今日さぁ、ウチで遊ぼうよ。」
誘われるがまま、初めてA君の家へ遊びに行った。


道路からコンクリートの階段を4.5段昇る。
自宅の1階は、工場だった。
電気部品を扱う町工場だったような気がする。
更に脇の鉄製外階段をタンタンと昇る。
狭い玄関で靴を脱ぎ、六畳ほどの和室へ上がる。
まだ母親は出かけて帰っていないらしい。

和室の窓際に四角い座卓。
その上の大きな「戦艦」のプラモデルが目に飛び込んだ。
僕などはまだ買ってもらったこともないような大きな戦艦。
父親とでも一緒に作ったのだろうか、
きちっと作り込んであるのがわかった。
もうその時点で僕は、
学校とは違う彼の知られざる一面を見せられてしまったようで、
ちょっとドギマギするのであった。
さらに、きちんと整理した教科書や漫画本と並んで、
僕の好きだった戦記物の本や忍者本なんかもあって、
どうしたって彼を、羨望の眼差しで見てしまう僕だった。

しばらくすると、母親が帰って来た。
「いらっしゃぁい。こんにちは。」と、
明るく声をかけてくれた彼の母親は、
A君とは似ても似つかぬ爽やかな笑顔の女性で、
僕の知っている友達のどの母親よりも、若く可愛らしい人だった。
子供の僕から見ても、「可愛らしく」感じたのが、
今となっては妙な話なのだが、、
そうして僕は、彼の知られざる私生活にますますドギマギするのだった。

彼の母親に促され、僕らは家の外で遊ぶことになった。
すると、道路へ下りるやいなや、A君は僕を残して、
そう、バネのない走りでスタスタと、角を曲がり、
やがて見えなくなった。

『どうしたんだろう・・』と思う僕。
その間も話し相手になってくれるA君の母親。

しばらくすると、A君が手に紙包みを持って戻って来た。

「はい、これ。」と言って彼が差し出したのは、
揚げたてのコロッケだった。
どうやら母親が彼に小遣いを渡して、近所の肉屋へ買いに行かせたらしい。

「どうぞぉ。」

そのアツアツを、僕ら三人はその場で食べた。
コロッケをオヤツ代わりに食べるのは、これが初めてのこと。
ほとんどカルチャーショックな気分だった。
僕と彼の母親は、コンクリートの階段に腰掛けながら、
彼は落ち着きなく道端をフラフラしながら、、、。

『やさしいお母さんだなぁ・・』なんて思いながら、
僕はジャガイモの香りと塩味の効いたコロッケを頬張っていた。



30才ちょっと前だったろうか、久しぶりに彼と再会した。
印象も昔のまま、、童顔な男になっていた。
今も自宅はあの場所だという。

「オフクロさん元気?」って訊く僕の複雑な胸の内を、
彼は知る由もなかったろう。

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駅裏の銭湯の隣りには広い空地があった。

ある夏の日の夜、その空地の草むらに、
一匹の赤茶色をした雑種犬が丸くうずくまっている事に、
我が家は気がついた。
首輪はしていない。
ハァハァと荒い息遣いで長い舌を出している。
よく見ると、横たわる腰からうしろ足にかけて出血していた。
傷を見る気にはなれなかった。
明らかに弱っている風で、腰が立たない様子だった。

「車に轢かれちゃったのねぇ・・・かわいそうに。」母親がそう言った。

たしかに、この場所と国道一号線とは、ほんの100メートルほどの距離しかなく、
真っ直ぐに見通せる位置にあったから、その想像は間違っていなかったと思う。


翌日。
我が家はせめてもという思いで、傷ついた犬に水と餌を持って行ってやることにした。
が、どうやら同じ思いにかられた人がいたらしく、既に犬の周囲には器が用意され、
若干の水と餌が与えられていた。
よく見ると犬は、これもまたその誰かが用意したであろうダンボールの上に横たわっている。
しかし、、相変わらず腰は立たず、さらに衰弱している様子が見て取れた。


『・・・・。』

幼いながらも、犬の運命に絶望的なものを感じていた僕は、
黙ってその場で見守るのが精一杯だった。


あくる日の夜、僕はふたたび家族と様子を見に行った。

が、食器類とダンボールを草むらに残したまま、
犬の姿はどこにも見当たらなかった。

ふと親父が漏らした。

「赤犬だから、、誰かが連れて行っちゃったのかもなぁ・・。」


当時はまだ、赤毛の犬を食用に捕獲する業者がいた時代である。
下手をすると、家の前に繋がれた飼い犬でさえ連れ去られる事があったという。


真相はともかく、思いがけない結末に、
大きなショックを受けた僕であった。


小学校から駅までは約800メートル。
時間のない朝はバスを利用していたが、
帰り道はたいていクラスメートと道草をしながら
駅を目指すことになる。
子どもの足でも普通なら15分程度のところ、
最低でも30分はかけていただろうか。

歩道に敷き詰めた平板の隙間を傘の柄の尖ったほうで
ほじくってみたり、道端に蟻の巣を見つけては、
入り口の穴を塞いでみたり、ひどい時は足で土を
かけてしまったりと、、男同士だとロクな事をしない。

ところがこれが、たまたま女の子と帰るとなると
大分様子が違ってくる。
ツツジの花を摘んでは、ほのかに甘い蜜を吸う。
互いにオオバコの茎の芯を取り出し、それを絡めて引き合う。
もちろん切れたほうが負け。
オナミノの実を、好きな子の背中にこっそり付けたままに
したり。

その度に、はしゃぎ、走りまわるものだから、
ランドセルの中のノートや筆箱も飛び跳ねて、
ガシャガシャと音を立てていたっけ。

道草、、かぁ。

そういえば近頃、オオバコもオナミノも、
都会ではすっかり見かけなくなった。

いや、、ランドセルを背負った小学生も
あまり見かけない。

koen

「サンダー」という名前の犬を飼っていた。
毛色は薄い茶色。オス。大型の秋田犬であった。
生後3ヶ月頃から我が家の一員として迎えられた。
家族の順位でいえば、次男坊の僕のさらに下位、
つまり、三男坊になるはずなのだが、実際のところ、サンダー自身が
僕の弟分と思っていたかどうかは疑わしい。

毎朝毎晩、彼を散歩に連れ出すのが日課になった。
休みの日には、歩いて15分ぐらいの公園にサンダーを連れ、
兄弟は野球グローブ持参、家族全員散歩へ出かける事もあった。
公園の広場には、同じく散歩に来ている犬連れの家族がいて、
中には犬を通じて飼い主同士が親しなるケースもあった。


たった一度だけだが、
両親がキャッチボールをした事があったっけ。
親父とはたまにキャッチボールをしていたので、
何の不安もなかったのだが、問題は母親だ。

『だいじょうぶ?できるの?』

兄弟の不安をよそに、
親父がゆっくりと振りかぶり、母親目掛けそろりとボールを投げた。
案の定、、母親はグローブを頭上に差し出すだけで、
恐怖に首をすぼめてしまうのがせいぜいだった。
後にも先にも、キャッチボールをする母親の姿は、これ一度きり。

『かっこ悪ぅぃ・・』 そう思った。

点々と転がるボール。

それを夢中で追い走るサンダー。


何気ない、どうということもない休日の風景。
僕らにとっても、サンダーにとっても、
最高に幸せなひとときだったはずだ。


なぜなら数年後、
サンダーは近所の酔っ払いに毎晩のように
暴力を奮われるようになり、
やむなく母親の実家へ預けることになったから。

家族は半年に一度ぐらい、彼に会いに出かけはしたものの、
二度と一緒に過ごすことはなかった。

そのままその地で、彼は6年の生涯を閉じた。
eki


「お兄ちゃんの行ってる学校へ僕も行く。」のひとことで、
僕は6才という年齢にもかかわらず、ひとりK市から東京の大井町まで
電車通学をすることになる。なんという無謀なことを、と思う。
それを許した親も大したものだと思う。
 当時は、いわゆる「越境入学」というのが、普通に存在していて、
僕も品川区の知人の家に住民登録をしていたという事らしいのだが、
それにしても、この通学距離は、非常識且つ危険極まりないと思うわけで、
延長距離的に「学校一」であった事は疑う余地がないだろう。
しかも、実際は僕が小学校へ入学した年に、兄貴はそこを卒業して、
中学校へ進学している。通う地域こそ一緒だが、そういう意味では
決して面倒見の良い兄貴ではなかったから、手を取り合って
ラッシュアワー時の電車に乗ったなんて事は、まずもってない。
 昭和30年代の後半といえば、日本は高度成長期を迎える頃であり、
急速な人口増加や都市化に、インフラはじめ交通環境の整備が
間に合わず、世界一のラッシュアワーとなって出現した時代である。
そこへ、身長140センチもあるかないかのランドセルを背負った坊主が、
大人の間で、もみくちゃになって乗っているわけだ。
自分の息子のことを想像すると、何度も言うようで申し訳ないが、
それを許した親も親だと思ってしまう。
 電車とバスを乗り継ぐこと約一時間。
目指す小学校へ辿り着くのだが、これがごく普通の公立校。
もっとも、当時区内では「品川の学習院」と評判の歴史ある公立校で、
最近になってこそ落ち着いたものの、
それでもいまだに、先進的でちょっとは知られた学校らしい。
 
 ある日のこと、僕の通学の様子が心配になったお袋、
学校からそっと、僕のうしろをつけて来たそうだ。
校門を出て、バスに乗るかと思いきや、ブルブルと傘を振り回し、
国鉄の線路沿いをダラダラ歩いて大井町駅へ向かう息子。
電車内でも落ち着きのない僕を見て、ハラハラしていたらしい。
乗換駅のK駅に到着。階段を上り、隣りのホームへ移る僕。
そして、乗車。イスに座ったと思ったら、発車時刻までの間も
吊り革に傘はぶら下がるは、車内の鉄の柱を片手で掴み、
ぐるぐると回転するはと一向に落ち着かない。
果ては再びホームへ飛び出し走り回るという傍若無人ぶりに、
さすがのお袋が声を上げた!

「さとしクンっ!!!」

  「!!・・・。」

 その場で僕は、縮み上がっていたそうだ。

 あの時のお袋の声、今もコダマしている。
 でも、そのあとの事は、なんにも憶えてないのだ。

 結局、懲りてない。


>我が家へ続く砂利道だ。

道の左手、7-80メートルくらい離れた土手の上には、
国鉄が走っていた。

道路脇から土手にかけては葦の茂る沼が広がり、
カイツブリの親子の姿をよく見かけたものだ。

道の右手には、まるでちばてつやの漫画の舞台にでも登場しそうな
大きな土管の転がった100坪ぐらいの原っぱ。
周囲三方は板切れの垣根で囲まれ、
残りの一方は、某電気メーカーの近代的な社宅に面していたせいか、
ねずみ色の金網で仕切られていた。

道の突き当たりには、青果市場。
斜(はす)向かいには、黒塀の旅館があったように記憶している。
我が家は、その道の途中。
幅3メートルほどの私道を横に入って、少し行ったところ。

近所には、オテンバで知られた和代ちゃんと、
小柄で色黒のカッちゃんという二人の友達がいた。
やんちゃの限りを尽くす、それが僕らの日常になった。

沼に立つ高圧線の鉄塔を、パチンコの標的にした。
タコ糸の先にサキイカを吊るし、ザリガニを釣った。
牛蛙のオタマジャクシを捕まえては、塀に投げつけたこともあった。
慌ててドブ川へ落ちたことも何度かあった。

ひとりで遊ぶことも少なくなかった。
土手に登り、線路に耳をあて、
貨物電車の来るのを待った。
土手で草滑りもやった。
季節になると、一斉に顔を出した土筆を母親にねだって、
甘辛く煎ってもらった。

原っぱでは、近所の工場で働く若い工員達に交じって、
キャッチボールを教わった。
手加減なしにノックの洗礼。
イレギューラーしたゴロを思いっきり胸に受け、
その場にうずくまったこともあった。
膝小僧の生キズが、絶えることはなかったから、
治りかけの赤黒いカサブタは、常に赤チンの色に染まっていた。

やがて遊び疲れて、原っぱにひとり。
土手の向こうに夕焼けが見える。
板切れの垣根の向こう側、
沼の横の道を、開襟シャツのオヤジが帰って来た。
大抵いつもは飲んで帰って遅いのに・・・。

オヤジが僕に気がついて手を振った。


昭和30年代を知る誰もがイメージするような、
まるで映画のワンシーンにでもなりそうな、
そんなひとときを僕は過ごしてきた。

幼かった頃の日常のワンシーンが、
どうということでもないのに、
今となっては、切ないほど胸に迫ってくるのは、
年のせいばかりでもないだろう。


昭和36年から39年頃にかけて、神奈川県K市に住んでいた時期がある。

S駅の改札を出ると、真正面に当時流行の「スーパーマーケット」が
あった。ここの1階の秤売りの菓子店のおばさんが僕は大好きで、
可愛がってもらっていた。
よく店内に入れてもらっては、母親が迎いに来るまでの間、
油を売って?いた思い出がある。
特にお気に入りのお菓子は、甘い甘いバナナ型をした砂糖菓子。

隣には古い食堂。
いつも焦げ臭い、カレー粉を煎った時の匂いがしていた。

改札を出て左側の切符売り場に沿って進む。
さらに20メートルも行くと、砂利道のバス通りへ突き当たる。
 左へ行けば、電車のガード。
このガード下には、戦後の闇市もかく在りきというような
薄暗くて湿っぽい商店街があって、駄菓子屋を訪れる以外には、
あまり足を踏み入れることはなかった。
実際、雨上がりともなると、その路地はぬかるんでいた。
 右へ行って約50メートル。
バス通りの右側には、パン屋さん。
ここのコッペパンが大好きだった。
開いたコッペパンの片側にイチゴジャムやバターをたっぷりと
塗ってもらう。たしかこれで10円。
たまにはちょっと贅沢に、
片面ずつにジャムとマーガリンを塗り分けてもらう。
いわゆるミックス状態。これで15円。

そのパン屋の向かい側の路地を左へ曲がる。

我が家へ続く砂利道だ。

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PROFILE
HN:
ば く ( BAKU )
HP:
性別:
男性
自己紹介:
Man of middle age
Singer;Song writer;Guitar player
東京都出身・O型・魚座
1995年3月:音楽活動再開
【BAKUJIN】【Fu's all time】等
バンド活動多数。
加えて、現在も
【えにし】【りずみん】
【So-BAND】【SPUU】etc...

バンド活動であったり、
ギター弾き語りストであったり、
ウクレレ講師であったり、
サポートギタリストであったり。
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