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ばく の音楽活動と日常を綴るブログ since August,2003
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久しぶりに車で帰宅。

東関道を走りながら、ふと夜空に目がいった。

一本の筋雲が丸い月の中心を遮るように漂っていた。

 あ、、と思った。

それは、まさにサルバドール・ダリの「アンダルシアの犬」
そのままの光景だった。

若い頃、ちょっと背伸びをして観た映画。
なにがなんだかわからないまま、
後味の悪さだけが残ったっけ。


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1960年代の中頃、スロットレーシングカーが
日本の若者の間で大ブームを起こしていた。
同じく若者文化の象徴的なプレイスポットとして
市民権を得始めていたボーリング場の片隅や、
ゲームセンターの一角に設けられた「サーキット」へ
自慢の「愛車」を持ち込んでは、
強烈な箱庭的疾走感に酔いしれていた。
今も昔も、男の子はラジコンカーに夢中になり、
スピードに憧れるものなのだ。

大森のボーリング場内にあったサーキットが僕の「ホーム」。
よく兄貴と連れ立って行ったものだ。
そのほか、親戚の家があったので、当時よく「遠征」したのが、
石神井公園にあったサーキット。
勢いあまって、コーナーでのスピンはもちろん、
コース外へ吹き飛んでしまうことだってしばしば。
でもこのマシン、意外とタフでまず壊れることはなかった。

写真は、今も自宅に残るスロットレーシングカー「フェラーリ」。
自作のステッカーをベタベタに貼り付けてあるので、
オリジナルデザインとは相当違ってしまっているが、
なんともレトロスタイルなレーシングカーではある。
車体の裏側には鉄製のシャーシ(車台)が組み込まれていて、
コーナリング性能の向上を目指して、釘を接着してあるかのだから、
この頃の自分の涙ぐましい努力?には恐れ入ってしまう。
とうの昔にスクラップされてしまったのだが、
このフェラーリの他にもう一台、所有していたマシンがある。
実はその車種が思い出せない・・・。
シム・クラーク駆る「ロータス」だったような、、
あるいは、ボンドカー「アストンマーチン」だったような。

いずれにせよこのスロットレーシングカー、
マシン自体の購入費は当然のこと、その改造費、
そして、時間いくらでかかるサーキット使用料といい、
子供の遊びとしては、若干高価な遊びであった事は否めない。
小遣い工面の限界点が、マシン性能の限界点でもあったわけで、
その後しばらくして訪れたブームの翳りとともに、
我がレーシングカー熱も、急速に冷めていったのだった。

ちなみに、
現在僕の部屋には、
パジェロ・エボリューション、GT-R、スープラ、と三台のラジコンカーがある。
ま、すべて数千円で手に入る子供用のオモチャなのだが。

電池ひとつあれば、いつでもどこでも疾走OK。


半ズボンといっても、
近頃の子供が履いているような丈が膝上まであるような
デザインのじゃない。
もっと短いやつだ。
このごろは幼稚園生だって、あまり履いていないかも知れない。

しかも、親は成長の早い子供に何年間も着せるべく
大抵の服は大き目のサイズの物を買い与える。
なのでその半ズボンときたら、短い上にダボダボとくる。
校庭で体育座りをしたり、滑り台を滑り降りたりすれば、
ズボンと太ももの隙間から、白いパンツが見えてしまうのだ。
子供心にもその決まりの悪さといったらなかった。

もっとも、パンツが覗くぐらいならまだいいほうで、
ゴムの伸びきったパンツでも履いていようものなら、、、。

男友達にはからかわれ、女子からはエッチ呼ばわりだ。

「もうこんなズボン、イヤだ!」
そう思っても、結局翌日も履いて出かける。




昭和39年暮れ、東京のS区へ引っ越す。
小学校へは徒歩で10分程度。
数年後に通うことになる中学校へも5分程度という近さだ。
それまでの通学時間に較べたら、呆気ないったらない。

当時はまだ、放課後校庭に居残って遊ぶことが許される
「大らか」且つ「安全な」時代だったので、
大抵の日は、校内放送のスピーカーから「蛍の光」が流れるまで、
「ピンポン」と呼ばれるボールゲームか、
ゴムボールを使った「手打ち野球」に夢中の僕だった。
球技は得意だった。
勉強は、、、二の次。
成績は、まぁ、良くもなく悪くもなく、、。
友達は多かった。
背は男子二十数名中、だいたい前から7-8番目。
やや小柄で痩せた少年。
いわゆる坊ちゃん刈りではあったけど、
長めの前髪を額の左側から右へサラりと流す「横分けスタイル」。
自分で言うのもなんだけど、、
きっと、、坊や坊やした印象だったに違いない。
(と、、誰にも言われたことないけれど・・・)

さらに、
真冬の雪の日でもない限り、ほぼ一年を通して半ズボン。
それでも寒い日は、太ももに鳥肌が立っていたし、、
きっと、唇だって紫色だったに違いない。

ちなみに、
親の好みで靴下は「白」と決まっていた。



どうも勘違いをしていたようだ。
K市から東京へ越したのは、
おそらくは昭和39年の暮れに近かったような気がする。
なぜなら、その年は東京オリンピックの開催年であり、
新幹線の開通という歴史的な秋でもあったわけで、
僕は家族と、その新幹線の開通日にK市内の沿線へ出かけ、
ひかりの勇姿をこの目で見たのをハッキリ憶えているのだ。

昨日、そんなことをお袋と話をしていたら、
やはり僕の記憶に間違いはなかったらしく、
「そう、アナタが三年生の暮れのことよ。」と
言っていた。


昭和39年夏、父親の仕事の都合で、
約4年間住んでいたK市を離れ、
再び東京都S区へ移り住むことになった。

それまでの電車通学の日々が一転した。
小学校からの距離約500メートル、歩いて10分前後。

結局この町が、
その後も僕のホームグラウンドであり続け、
今も真から「地元」と呼べる町なのだ。

駅前にも小さなスーパーマーケットがあるにはあった。、
が、ガードをくぐった向こうには、多少だが垢抜けた商店街があって、
夕方は母親にくっついて、そっちの商店街へしばしば出かけた。
たまに「8マンシール」の入ったふりかけを買ってもらった日には、
それこそ天にも昇るくらいに嬉しくなってしまう僕だった。

 年の瀬、商店街では『歳末福引セール』の真っ最中。
母親と僕は買い物帰り福引会場へ寄った。
たしか、抽選は三回ぐらいだったように思う。
僕は、回転式の福引台をガラガラと回した。

なんと、、特賞の黄色い玉がポロリと飛び出したのだった。

「おめでとうございまぁぁす!」の声。
そしてチリンチリンとけたたましい鐘の音。

「ボク!おめでとう!よかったね。
 特賞だよっ! 商品は、新宿コマ劇場ご招待!」
 
小学校低学年の僕にとって、「劇場招待」とか言われても、
およそピンと来るものではなかったけど、
とりあえず、中の方からこみ上げてくる嬉しさはあった。


後日、新宿コマ劇場へ出かけた。もちろん母親とふたり。
喜劇だった。
さすがに、芝居のタイトルは憶えていない。
が、座長は当時大人気の宮城まり子。
共演者に、左とん平、有島一郎、、、。
鮮明に記憶しているのが、宮城まり子の小坊主姿。

そんなことがあって以来、
家族は僕のことを「クジ運が良い」というようになったが、
たった一度きりの、これもビギナーズラック?
単なる思い込みでしかない。

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PROFILE
HN:
ば く ( BAKU )
HP:
性別:
男性
自己紹介:
Man of middle age
Singer;Song writer;Guitar player
東京都出身・O型・魚座
1995年3月:音楽活動再開
【BAKUJIN】【Fu's all time】等
バンド活動多数。
加えて、現在も
【えにし】【りずみん】
【So-BAND】【SPUU】etc...

バンド活動であったり、
ギター弾き語りストであったり、
ウクレレ講師であったり、
サポートギタリストであったり。
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